食後のためいき

no melancholic, no life.なんだかなぁ。そんな日々をつづってます。最近はマインクラフトで開拓しては現実逃避する日々。

距離感のつめ方が自分と違う人に不快感を感じる。

 録りためていた番組をいくつか見ていた。
 レコーダーに自分が録画予約した記憶がないもの。
 
耳が痛いテレビ 芸能界カスタマーセンター|日本テレビ

 この中で、藤田ニコルというタレントが出ていて、
 同じ17歳の視聴者と名乗る人からクレームを受けるくだりがあった。
 そのクレームは
「ため口でしゃべるのをやめてほしい。
同じ17歳が皆このようなものだと思われたくない。」
というものだった。
 このくだりを見ながら、
ぼんやりとため口について考えた。
 私はまず「ため口」や「ため」という言葉の語感に違和感を感じる。
 しかし、うまく言語化できていない。
 
 自分が普段接しない人たちとたまに接する機会があると、
 年齢を互いに伝え合ったのち、

「え、うちらためじゃん、じゃ、ため口でいいよね」

となる。これが結構なる。
 
 このくだりがすごく不快だ。
 このタレントでため口をしゃべる人をみると、
この不快さが同時に想起される。

 思えば、年齢が同じだからと言って、
 友人関係を半ば強制してくる大人に結構あったことがあり、
そのように強制してくる大人もいやだし、
 年齢が同じだからといって、友人面してくる人も不快だった。

 このようなことをぐちゃぐちゃ頭をめぐらせていると、
 言葉遣いってなんなのだろうということに思いをめぐらす。
 
 どうして、日本語には敬語と敬語じゃないものがあるのだろう。

 これは、人との距離感だと思った。
 
 敬語は人と人との距離感を適切に保つ効果がある。
 
 互いと互いが過度に近づきすぎないために、
 
 人と人とが不快な思いをしない

 適切な距離。
 
 この距離が初対面の相手とゼロ距離でも

 何の問題がない人でかつ初対面の相手の価値観に思いをめぐらせられない人が

 前述の

「え、うちらためじゃん、じゃ、ため口でいいよね」

 と平気な顔して言える人なんだろう。

 このような人に私は嫌悪感を感じる。

 あんまり考えすぎるとげろが出そうになる。